阿曽原温泉小屋

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変わらず流れてます

2021-03-11

写真

玉石だらけの河原には冷たい水が!

もう10年、まだ10年・・・マルの事故も東北の震災も、突然の災難って一言では片付けられない不幸に見舞われた当事者の方々の本当の苦しみは分かるはずもない私ですが・・。

少しずつ少しずつでも、一緒に前を向いて進んで行ければと願うばかりです。

※変わらない流れ

写真は、黒部川に架かる 「権蔵橋」 から上流の朝日岳~白馬岳を眺めたものです。近くには、北陸新幹線「黒部宇奈月温泉駅」 北陸自動車道「黒部インター」があって晴れた日にはキレイに山が見えるのです。

黒部川の水は 何百万年? も前から、あの奥山から何があってもズ~ッと流れ続けて豊かな恵みも与えてくれますが、時には暴れて人間の小ささを思い出させてくれたりします。

写真の辺りの下流域では、最近水害の発生も無く平和で安全な生活に慣れてそれほど不安も持たずにいますが、この辺りの屋敷・水田何処をを掘っても玉石や砂が出て来るのは見渡す限り黒部川の河原だった証拠です。

東北の震災が教えてくれるものが沢山あるはずで、私には大した事出来ませんが人間がこの先「黒部川」とどのように共生してゆけるのか?考える日にしてゆければ良いかなって思う次第です。

正しい雪洞生活?Ⅱ

2021-03-10

写真

赤谷山~剱岳までの北方稜線(立山町三ッ塚新の常願寺川右岸堤防より)

ある程度掘り進んだところで、5人分の荷物を入れて横になる広さと立ち上がれなくても中腰で移動できる高さに広げてなくてはなりません。

何日も使って洞内が人の熱で温められたり雨が降ったり外気温が上がると、雪が緩んで自重で天井が徐々に下がって来るので、最初に高さを確保するか後から掘り上げる必要が、適当な雪洞を作って朝目覚めて天井の低さに驚いたことがあり、いろんな条件を考え併せながら作る必要があるのです。

曇天のガスの中でも暗くなって日が落ちてきているのが分かります。どうせ一晩だけの寝床だし明日からの行動を考えると、トットと完成させて飯食って寝なければなりません。

雪洞を掘り始めた場所は、見込み通り雪の厚さがありガチガチに締まり過ぎておらず掘り易い雪質で、風も強くないので入り口が雪で塞がれてしまう心配もない適地でした。

イイ感じで広がって、もうそろそろ良いかな~って思うのですが・・・班長はスコップを振るう手を休めません。 壁の中に物置の棚代わりの大き目の穴やロウソク立て用の小さな穴を掘って、天井をなるべく滑らかにしなければ雪が融けて水滴が落ちて来ると凸凹を削り出します。 

外は日が暮れて暗くなり気温が下がって雪洞の外で作業する若い隊員が凍えていても、暖かい雪洞の中でヘッドランプを点けての作業する者には関係ありません。 なにしろ訓練なんだから、一泊だけなんだけど!キッチリとした雪洞を作るのも訓練のうち??

赤谷山頂上直下に、数日間はシッカリ泊まれる立派な雪洞を作り上げて夕食を食べ始めたのは20時過ぎだったと記憶しています。

正しい雪洞生活?

2021-03-09

写真

稜線に裏側は、小黒部谷になります。

訓練計画では、剱岳頂上で早月尾根隊・小窓尾根隊と全員で合流する予定なので、赤谷尾根隊の我々はコースの距離が一番長くモタモタしていられません。

藪尾根だった尾根も、高度を上げると雪稜となりカンジキでガンガン登り樹木が低く細くまばらになり「這い松」が所々見え出す頃には、氷化してはいないものの強風に吹き付けられた雪面がパンパンに締まってアイゼンを効かせながらの登高になり、頂上直下の急斜面では風が強い中でアイゼンの出っ歯の爪とピッケルだけが頼りで、重いザックもあってフクラハギをプルプルさせながらの歩行になりました。

赤谷山頂上 に着いても登頂の喜びに浸かる間も無く、強風の中で雪洞を掘れそうな斜面を観察します。 岩・這い松等が雪面に出ておらず、スコップで掘れる硬さで厚みがあって夜中にトイレに外へ出ても滑落するような急斜面でもいけません。

写真は馬場島からの赤谷山ですが、富山湾から早月川沿いに風が向かい馬場島から枝分かれする沢筋通りに風が抜けるのですが、頂上付近の稜線は何時も北西の風が吹いているので見えている側の稜線付近にはそれほど積雪はありません。(北西向き斜面でも、谷・沢の中には積雪が沢山ありますから)

頂上から劒岳側の稜線を少し下った奥に下った若干傾斜が緩んだ斜面に行くと、雪が柔らかくなって岩や這い松も顔を出していない場所で「ここならば!」と雪洞を掘ることに決めて、5人で交代しながらスコップを振るい雪のブロックを穴の外に押し出して掘り進めます。

先輩方の積み重ねの上に

2021-03-08

写真

赤谷山~白萩山~赤ハゲ~白ハゲ~大窓コル~大窓の頭(森林限界が分かるかと)

翌朝は雨は上がっていたものの薄くガスが掛かった中を、窮屈な体勢だったので節々が痛く寒くて寝不足の重い身体に気合を入れて赤谷尾根を登り出します。

赤谷尾根 は藪尾根で岩場が無いので簡単そうに見えますが、途中が痩せ尾根となっていて雪の付き方が悪いと慎重に通過しなければなりません。

富山県警察山岳警備隊が発足したのが昭和40年ですが、昭和44年1月に剱岳一帯で15パーティー81人が雪山で行動不能となって救助要請が入ります。

遭難救助要請を受けても、当時の山岳警備隊の技術・装備・知識では厳冬期の赤谷尾根に登って救助活動など出来るはずもなく、山岳警備隊の先生役だった立山町芦峅寺 の立山ガイド・山小屋の主人・猟師等に応援要請をして赤谷尾根を登って救助に向かったことがあったそうです。

その際、芦峅寺からの応援メンバーの一名が痩せ尾根から白萩川側に数百メートル滑落してしまう二重遭難が発生してしまい、芦峅寺の立山ガイド故佐伯栄治さん 剣沢小屋先代主人佐伯友邦さん の二名が谷底まで降りて決死の救助の末に助け出しました。

(NHKプロジェクトX「魔の山大遭難 決死の救出劇」で紹介されています)

「想定外」って言い訳は・・・。

2021-03-07

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左奥白く高い山が「赤谷山」 右手前に下る「赤谷尾根」 

平成2年3月3日昼前に馬場島を出発、各班それぞれのコースから入山しました。

入山日は気温が高く小雨が降っていて、加えてこの年は積雪量が少なく元々登山道の無い 「赤谷尾根」 は藪と穴だらけの不安定な残雪で歩き辛く初日なので荷物も重く登るのに苦労しました。

もう一つ決定的な問題が・・・いかな3月とはいえ寒気が入れば厳冬期と同じ気象条件になる雪の剱岳に登ろうとすれば、テントで夜は眠り吹雪が来ればやり過ごすのが普通の登山スタイルなのですが。

しかーし、我々の班長のT分隊長(後の隊長)の提案で「赤谷尾根~池の平山~剱岳~早月尾根~馬場島」を全て雪洞のみで歩き通す計画で・・・雪洞の入り口の穴を塞ぐための小さく薄いツエルトだけを持って入山したのでした。

ただの無謀登山者!に見えますが、装備が万全の状態で救助活動に出れる時ばかりではない! 現場でアクシデントが発生すればテントを利用できなくなるかも! 最悪を想定しての理由からで 寒いのを我慢するのも訓練! やり通せる体力・経験に裏打ちされた自信があればこそ? 決して山を舐めたり・・重いから止めよう等とヨコシマな考えからではないのですが・・・。

我々パーティーは、夕方になっても雪洞が掘れる積雪量の多い標高までは届かず、仕方ないので樹木が折り重なって竪穴形状で周りに残雪で壁が出来た形の場所でビバークすることに。(想定外?)

天井にツエルトを張り込んで屋根にして、雨が滴り風が吹き抜ける竪穴で着の身着のままの5人は車座に座って訓練初日のビバークを過ごしたのでした。

鍛冶さんの日

2021-03-07

写真

遺稿集に描かれている「剱岳北西」:故人の父上の画

随分昔の話になりますが平成2年3月7日、富山県警山岳警備隊は劒岳において訓練中でした。

当時現役隊員であった私も所属の入善署から訓練に参加して、3月3日から 馬場島 より早月尾根班・小窓尾根班・赤谷尾根班の三班に分かれて剱岳に向かい頂上で合流する計画で行動しました。

早月尾根班の鍛冶分隊長が、「カニのハサミ」基部から上部を目指してルート工作中に足元より表層雪崩が発生して池ノ谷右股に雪崩と共に流されてしまいました。(「カニのハサミ」剱岳に登る別山尾根ルートの平蔵のコルから早月尾根を見ると目の前に見える単独の岩峰ですが、昔はもう一つ岩峰があって一対となって「カニのハサミ」と名付けられた様ですが、一つは崩落して無くなったと聞いています)

7月17日に 池ノ谷右股 の雪渓上にて御遺体となって発見されたのでした。前日の強い雨で融雪が進み現れたものと考えられ、事故発生から実に132日が経過しており発見地点は事故発生現場から800m下部地点でした。

発生当日は、赤谷班として小窓から三の窓を目指していた我々でしたが、三の窓で小窓尾根班と合流して天候悪化により待機を指示されて、無事を願うばかりで何もできないもどかしさの中で雪洞を掘ってビバーク準備に入ったのでした。

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