阿曽原温泉小屋

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ひっそり!

2020-04-27

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イワウチワ(欅平にて)

先日、欅平に仕事に行ったら斜面にひっそりと咲いていました。

この日は、トロッコ列車から見てると途中の猫又駅横斜面が見事に咲き広がっていました。

トロッコ沿線ではよく見られる下草?ですが・・・。

春先に群生する下草は、淡いピンクの花が濃緑の葉っぱの中に広がる咲きっ振りは見応えがあります。(この日、欅平ではほとんどツボミのままで、やっと一輪見つけました。今頃は満開かも?)

来シーズン、見に来てもらえると良いのですが。

ウイルス治まったら、食べに来られ!

2020-04-26

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小座布団?

前に黒部川沖でヒラメが獲れ過ぎて、「しゃぶしゃぶ」の 試食会 に誘われた話を紹介しました。

先日「魚の駅生地」に寄ったら、デカいヒラメが活かされたまま売られていました。(1.8ℓのペットボトルと比べると!大きさ・身の厚さはミニ座布団クラスです)

魚の駅で刺身で食べさせてくれるはずだし、お土産用には昆布〆刺身がお勧めです。

ウイルス騒ぎが治まるまで、今はガマンです。

美味しいコメが取れるには。(ここでも絡み合ってます)

2020-04-26

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水が張られて、田植えがボチボチ始まりました。

ダム・砂防堰堤・河川堤防のおかげで、暴れる黒部川を抑えて安心して住むことが出来るようになって来ました。

しかし元々河川敷みたいな土壌で保水能力がなく、更に黒部川から引き込む水の水温が低くて水稲栽培には全く不向きな土地だったようです。

そこで昭和26年から、黒部川扇状地外縁の里山にある粘土質の赤土に強力な水流をぶっ掛けて泥水にして、用水を利用して耕作地まで流下させて砂質の土壌と混ぜて土質改良をする 「流水客土」  を施して農業で食べて行ける様になったと聞いています。

ちなみに去年の今頃「ももクロ」ライブが行われた、宮野山運動公園辺りの赤土も扇状地の土質改良に利用されています。

黒部川扇状地は砂礫の堆積層がかなり深くまであることが分かっており、おかげで地下水が豊富で「黒部川扇状地湧水群」として名水百選として環境省に選ばれています。(前ぺージで書いたイワナ養魚場も利用してます)

数年前NHKジオジャパンのスタッフを「湧水群」に連れて行ったら、我々からすれば当たり前なのですが・・・スタッフ連は喜んで喰いついてきました。 (湧水は海底からも湧いているのが知られています)

黒部川の保全・利用・整備は、山奥だけでなく流域・海岸・海の中まで絡んでいるのです。

ウイルス騒ぎが治まったら、美味しい水を求めて「黒部川扇状地湧水群」訪ねて見られればどうでしょう?

実はこの辺でも!

2020-04-25

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イロイロ咲いてました。

富山県は、チューリップの球根栽培が盛んなの知ってました?

毎年、砺波市ではGW中に 「となみチューリップフェア」 という大きなイベントが開催されるのですが、残念ながら今年は早々に中止が決まってしまいました。

黒部川流域でも栽培されて出荷されているのですが、外出自粛中じゃなくても人気のない黒部川下流の堤防を車で河口に向かうと、入善町板屋の球根乾燥プラント前に大きなプランターみたいなケースに沢山咲いていました。

ちなみにすぐ近くには、毎年恒例の「イワナ放流事業」でお世話になっている「ポツンと一軒家」的な養魚場があります。(黒部川扇状地の豊富な湧水を利用しておられます)

ウイルス騒ぎが治まったら、チューリップを見に富山に来てください。

山~川~海、黒部は絡み合ってます。

2020-04-25

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河口から新潟県境に向けては、海岸線を守るためのテトラポットが続いてます。

黒部のパワーをもう一つ。

「古黒部」の地名の話をしましたが、もう少し新潟県側に向かうと「元屋敷」という地名があります。

先月「ヒスイ海岸」を紹介しましたけど、その手前の笹川という小さな川の河口の海岸線まで山が迫って、狭い間に旧JRの線路と県道があるだけです。

家も無いのに 「元屋敷」 って??? 実は現在の朝日町泊地区(町の中心街)がこの辺りにあったそうですが、黒部川の流れを変えたことで山から海岸線まで運んでいた砂・砂利の供給が途絶えてしまい、潮の流れが速いので海岸線の浸食が進み泊地区全体が現在の場所に移住したので「元屋敷」との地名が付いたとモノの本で読んだことがあります。

黒部川はその水量と勢いで、早い潮の流れに負けないくらいの砂利・砂を山から運んで来てくれていたのです。

黒部のパワーが凄くて・・・。(らしくない話で、すみません。)

2020-04-24

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黒部大橋下流の芭蕉像と句碑

くろべ四十八ヶ瀬とかや

     数知らぬ川をわたりて

        那古という浦に出づ

松尾芭蕉が奥の細道の中で、黒部川を渡るときに難儀した様を残しています。

当時は黒部川に架かる橋は、扇状地の扇の要に当たる日本三奇橋の一つ「愛本橋」まで旧北陸道上街道まで遡らねばならず、下流域の旧北陸道下街道には真面な橋を架けることが出来ず、「四十八ヶ瀬」とある様に愛本より下流は流れが何本にも分かれて広い範囲が黒部川となっていました。(愛本って地名!なんだか素敵でしょ。別の機会に話しができれば)

富山の地図を広げてもらうと、新潟側の入善町とその向こう隣の朝日町との境界に「古黒部」という地名がありますが、愛本から古黒部方向に向かって絵に描いた様な河岸段丘が見られます。

昔の黒部川は今とは全然違ったところを流れていた証拠で、氾濫する度に扇状地を好き放題に流れていたのでしょう。

今の流れになったのは、関ヶ原の合戦後に赴任した前田家の殿様が堤防をほぼ現在のルートに決めたからとのことですが、その後も大雨の度に氾濫して洪水被害が流域を襲っていたそうです。

反対に流れが変わって影響が出たこともあって、入善町春日集落の住民が年貢として毎年供出してきた鮭が水量が減って遡上して来なくなり、年貢の減免を代官宛に願い出ていた書簡が残されているとの事です。(春日地区は、古黒部地区の海側にあります)

黒部川のパワーを、他の方向から少し分かってもらえたかな~・・・外出自粛の暇つぶしになれれば良いのですが。

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