目の前のモノが当たり前ってことは・・・たったの百年!
2025-03-10

冬の奥鐘橋から下流・・・ここから写真を撮られた方も多いのでは?
土曜日に聴きに行った県民会館での「黒部川電源開発の歴史」の講演会の後の質問コーナーで、トロッコ列車の復旧時期を質問されている方がおられました。
「地元の皆さんは心配して下さっているのだなぁ~」
というか「地元の誇り」として思っておられる方々なのだと強く感じて来た次第です。
少しだけ知っている?雑学を・・・
黒部川の上流部については「カモシカ狩り」「イワナ漁」「黒檜盗伐」等で信州側からの入山者があったり、戦国末期に富山城主佐々成正のサラサラ越えの記録もあります。
一番険しい中流部についても、鐘釣温泉へ魚津市から片貝川を遡ってウドの頭のコルから「ウド谷」を下って湯治に通っていたとの話もあります。(明治になって行政区分を決める際に、魚津と宇奈月が揉めたとの話が)
コル北側にに「サンナビキ山」と有りますが、「サンナビキ」??地元の方言でも聞いたことが無いのですが「鐘釣に向かう人々が、三回目に休む場所だから」と山の大先輩から聞いたことがあります。(黒部流域については「タテガビン」「ビンガ」等??意味不明のモノが)
黒部奥山は江戸時代には加賀藩直轄地として、奥山廻り役という役人と案内係のみが入る以外は立ち入りが厳しく禁止されていた場所でした。
奥山廻り役にしても激流と渓谷の険しさから黒部川沿いに行き来することは出来ず、支流の枝沢から尾根を越え枝沢を下り尾根を乗り越えながらの行程だったようです。
それでも明治になってから、水力発電の適地として脚光を浴びて調査~開発されて来たのです。
続く・・・
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