阿曽原温泉小屋

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たまには独り酒?

2025-03-14

写真

レバー串だけのつもりだったのに

一昨日は、地元のガイド・民間救助隊員仲間・世話になってる山道具屋さん・・・そして日本山岳ガイド協会副会長のイワオ氏がパキスタンへ行くというので、近場の山関係者だけで壮行会??みたいな飲み会をイワオ氏の地元魚津市の 「ぜんろく」 で集まって飲んで来ました。(若い頃の「ぜんろく」マスターは、私の同級生とバンド仲間だったらしく富山店の時代から時々お世話になっています)

私より少し若いイワオ氏ですが、パキスタンへ行こうという気力には脱帽です。

思いっきり楽しんで来てもらいたいものです。

呑み放題プラン終了で解散したのですが、時間も早いし黒部で途中下車して一杯ひっかけてゆこうかと考えていたのですが、次の富山地方鉄道は三十分余後なので・・・シャーナイから魚津駅前で飲めるところは無いかと、フラフラと焼き鳥屋さんに入ってレバー串とビールで飲み始めたのですが・・

店員さんが「お勘定済ませましょうか?」って言うので?そういえば、店に入った時に店員さんに「次の電車まで呑ませて」って座ったのですが・・・時計を見ると発車まであと10分!少し迷ったのですが、そのまま次の終電車まで一時間足らずを焼き鳥屋で1人で飲むことにして、サガリ肉・アスパラベーコン等々で「独り酒」おかげで昨日は少し呑み過ぎ食べ過ぎで・・・(呑み放題のメガハイボールが悪かった・・)

明日からは、毎年恒例のお楽しみ会?「宇奈月方面山岳救助隊の研修会」で福井までカニ食って飲んで来る予定ですが、寒くて山の雪がなかなか融けず・・今年は仕事に入るのが遅くなりそうです。

たったの百年! 下流域は、安全安心になりましたが

2025-03-14

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左側谷奥山で崩壊して押し流されてきた土砂で本流を堰き止めてますが、昔はそのまま下流に・・

黒部川流域の、災害のことを書き始めるとキリがないのですが・・・

近年は、ダム・砂防堰堤が作られて下流域での護岸整備も進み大きな被害は出ていません。

私が子供の頃は、黒部川河川敷には痩せた土壌に育つ「グミの木」が生い茂るばかりで他の樹木は見なかった記憶があるのですが・・・(河原でグミを摘んで来て「グミ酒」を自宅で作っていました)

近年の下流域の河川敷に、ソコソコ太く育った様々な樹木が茂る場所が目立つのは、チョイチョイ発生していた洪水が河原に自生する樹木をなぎ倒していたのを、ダム・砂防堰堤・水制・護岸工事でコントロールされて来たから??

最近は、河川敷内にゲートボール場等公園整備される様になりました。

しかし険しく急峻な奥山に大量の雨が降るのも変わらないし、隆起続けている山々は崩壊を繰り返し続けて激流で土砂が下流に運ばれるのは変わらない訳で、人が住む下流で被害が目立たなくなっただけで上流~中流域では地形変化が繰り返し続いています。

黒部川扇状地 の広大な平野部は、黒部川が上流から激流で運んできた土砂で出来上がっていると思えば「黒部川の凄いパワー」を感じてしまいます。

参考ですが、奥山から洪水の度に流されて来る「流木」も、途中のダムで止まってしまうのでダムには流木回収装置と処理要員が配備され回収された流木はチップ・工芸品に加工されたり、流木の中に潜んでいたクワガタムシの幼虫が羽化して成虫になる事も(クワガタが湧く?ちなみに流木からはカブトムシは見かけないので奥山にはいないのか?)

ちなみに50年ほど前までは、多くの家庭の風呂は薪で沸かしていたので河原の流木を拾って薪にしてました。(流木を富山湾まで一気に大量に流してしまうと、漁港が流木が埋め尽くされ船が出せなくなったり、漁網に穴が開いたりの被害が出てしまいます)

写真の不帰谷からの土砂の供給は、ダムが出来たおかげで下流域まで一気に届かず災害防止に役立っているのですが、土砂が堆積して~河床が上がり~奥山に留まる様になり「ダムが埋まる」等、他の問題も出て来たのですが・・・調整取りながらの管理が必要に!「自然との共生」ってことが大切に??

たったの百年! 黒部の開発は苦難の連続でした

2025-03-12

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暴れる山に人間は無力なのです

黒部川の災害については 「黒部川の洪水災害を振り返る」 にまとめられているので興味のある方はリンクを覗いてみてください。

(トロッコ列車の線路が被災している映像もあります)

昭和44年8月の災害時は私は小学生だったのですが、水が引いた後の黒部川に行くと河原一面が汚泥・流木・濁流で一面茶色に変わっていて、上流にあった旧愛本橋は流されたと聞かされて驚いた覚えがあります。(リンクの地図の現愛本橋の直ぐ上流に旧愛本橋がありました)

我々は仲間を募って、トロッコ列車沿線の欅平・鐘釣等で河川敷に錆ついて埋まっている鉄類(鉄道レール・鉄筋・ガードレール等)の 回収事業 を行って来ました。

ほぼほぼ洪水で流失被害に遭ったものばかりで、欅平「奥鐘橋」直下の河原でグニャグニャに曲がって埋まっていた鉄道レールは昭和20年代製のものだったり・・、黒部の開発は「災害との戦い」だった証拠ですが、観光に来た方々が目にすればガッカリするだけだろうから「後始末しなければ」と始めた事業です。

(洪水後すぐに回収すれば?って思うかもしれませんが、土砂・川の流れに埋まってしまい、後になって河床の流れが変わって目に付く様になってくるのですが、そもそも昔は環境保全意識が低くかった?回収するにも、費用はどこからも出ないし危険で汚いし「ゴミは川に流されるもの!」って意識があった様な???)

※実は・・・

これまで何度か放映されてきました

 『黒部百年物語』

BSテレビ東京 3月26日 19時~21時枠で、三度目の再放送が決まったと昨夜連絡が入りましたので興味のある方は見てやって頂けたらと・・・。

実は先月末の上京は、遅ればせながらの番組スタッフ連との打ち上げ的な・・・別件で、お世話になった方への御挨拶がてら、黒部でいい仕事してくれたスタッフと呑んで~Bディランの映画見て~靖国お参りして~将門塚巡りして来たのでした。

どちらも大切な用事ですが?偶然同じ時期に・・「縁」が味方してくれてる、って呑む言い訳にしか聞こえないか?

たったの百年! 今日は・・・もう十四年

2025-03-11

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一昨日の白馬方面・・稜線の手前は勾配が緩いのですが、稜線の向こうは急傾斜!

人間が電源開発で、本格的に黒部峡谷に入り出して、まだたったの百年余!

人間の祖先が地球上に生まれて200万年前(諸説あり)、日本列島が大陸から分離したのはズ~ッと以前の数千万年前には日本海となる溝が出来ていたとのこと。

ちなみに宇奈月温泉下流部の山中で、「ジルコン」と呼ばれる約38億年前に出来た日本最古の鉱石が発見されています。

原始の黒部川の本流は、黒部ダム上流の現在の「東沢谷」だったのではと地質学者の原山智先生から直接教えていただきました。(源流部の雲の平・上の廊下は火山活動で後から出来たとのこと)

また黒部川を境にした両岸「立山連峰」と「後立山連峰」は隆起し続けていると「ブラタモリ」でやってましたが「黒部が生きている証拠」です。

写真は自宅から見た白馬方面ですが 白馬頂上 に大きな「石製標柱」(方位版)が設置してあるのは登った方ならば御存知かと思いますが・・・設置場所の稜線沿いに地割れが発生し始めてしまい、場所を変える等の対策しないと倒壊の危険が出てきたとのことです。

黒部の両岸が隆起している証拠では? 人間の物差しとは比べ物にならない長い長いスパンで、隆起して~崩壊して~浸食されながら・・・現在の黒部が出来上がって来ているのですが、人間が関わり出してたったの百年しか・・・。

※もう十四年!

東日本大震災当日は、午後から立山町民会館で登山道整備の会合が予定されていて芦峅寺でランチしながら、十一日前に発生した山岳警備隊員の訓練中の事故で殉職した隊員を偲びながら辛く悲しい時間を仲間達と過ごして、会議後の帰り路のラジオで大きな被害が出ていることを知り重い気持ちで帰ったのを覚えています。

こちらは、もう十四年!  被災した方々の傷は、まだまだいえるとは思いませんがお見舞い申し上げます。

殉職した後輩も、思い悩んでも還るわけでもないのですが・・・良い奴でした!

目の前のモノが当たり前ってことは・・・たったの百年!

2025-03-10

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冬の奥鐘橋から下流・・・ここから写真を撮られた方も多いのでは?

土曜日に聴きに行った県民会館での「黒部川電源開発の歴史」の講演会の後の質問コーナーで、トロッコ列車の復旧時期を質問されている方がおられました。

「地元の皆さんは心配して下さっているのだなぁ~」

というか「地元の誇り」として思っておられる方々なのだと強く感じて来た次第です。

少しだけ知っている?雑学を・・・

黒部川の上流部については「カモシカ狩り」「イワナ漁」「黒檜盗伐」等で信州側からの入山者があったり、戦国末期に富山城主佐々成正のサラサラ越えの記録もあります。

一番険しい中流部についても、鐘釣温泉へ魚津市から片貝川を遡ってウドの頭のコルから「ウド谷」を下って湯治に通っていたとの話もあります。(明治になって行政区分を決める際に、魚津と宇奈月が揉めたとの話が)

コル北側にに「サンナビキ山」と有りますが、「サンナビキ」??地元の方言でも聞いたことが無いのですが「鐘釣に向かう人々が、三回目に休む場所だから」と山の大先輩から聞いたことがあります。(黒部流域については「タテガビン」「ビンガ」等??意味不明のモノが)

黒部奥山は江戸時代には加賀藩直轄地として、奥山廻り役という役人と案内係のみが入る以外は立ち入りが厳しく禁止されていた場所でした。

奥山廻り役にしても激流と渓谷の険しさから黒部川沿いに行き来することは出来ず、支流の枝沢から尾根を越え枝沢を下り尾根を乗り越えながらの行程だったようです。

それでも明治になってから、水力発電の適地として脚光を浴びて調査~開発されて来たのです。

続く・・・

もう三月・・・

2025-03-09

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扇沢駅前から「爺ヶ岳」方面 今年は写真の切れた辺りの斜面が雪崩れてました

先程所用で宇奈月まで行って来ましたが・・・三月上旬なのに宇奈月スキー場が真っ白で「残雪が非常に多い!」って見て来ました。

今冬は大雪だったし二月末から寒かったのもあるのでしょうが、トロッコ列車の復旧作業に影響が出なければよいのですが・・・これからの気温にもよるのですが、毎年4月初旬に行う「黒薙温泉」の浮石除去作業も若干遅れるのではないかと???

雪が多かったからといっても「雪質」「気温」「風向」「雪崩発生のキッカケ」等の条件によって、雪崩がどの程度出ているかは別問題なのですが???

どれだけ黒部峡谷が雪で埋まっているのか??実際奥山に入ってみない事には今のところ何とも言えません。

写真は先日の欅平「奥鐘橋」除雪作業の帰りに「爺ヶ岳」方面の写真ですが、手前左側から降りて来ている尾根斜面から二月上旬に雪崩が発生して、扇沢から大町側斜面に雪崩が走ってスノーシェッドから溢れたデブリが道路を埋めてしまい・・・斜面安定後の道路除雪に一週間弱掛かって、その間は通行止めになっていた様です。

我々が扇沢に入る頃には、除雪された雪壁の掘削面には雪崩で折られた太い樹木が何本も埋まっていました。

樹木が太くなるまでの数十年以上は、その斜面に強い雪崩が出ていなかったことになります。

以前「柏原新道」上部から大規模な雪崩が発生して今回の雪崩れた斜面の大町側に巨大なデブリを見たことがありますが、今回その場所では大きな雪崩れは出ておらず???

扇沢は偏西風が立山連峰~黒部峡谷~後立山連峰を越える都度雪を置いてくるのですが、雪質も積もり方も違うし当然地形も別物なのですが、写真の稜線には雪が薄くしか付いていないけど手前斜面にはそれなりの積雪があるから雪崩が発生したのですが・・・

黒部は「奥が深い?・・雪が深い?」です。

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